素人料理付き異世界ツアー詐欺 プロローグ「酢豚」  突然だが、質問させてほしい。  キミが会社員だとする。絵に描いたようなブラック企業で、キミは毎日必死で残業した末に体を壊す。  医者はしばらく仕事を休んだ方がいい、過労で死にかねないと忠告する。  その診断書を持って上司に相談しに行ったら、「じゃあ明日から来なくていいよ」と言われる。  クビだ。  キミは呆然とするだろう。  新卒で会社に入ってから5年、キミは仕事を生き甲斐として働いてきた。  有給も取れず、残業代すらロクにもらえず、身を粉にして働いてきた。  それが明日から、もう来なくていいという。  自主都合での退職扱いにされて、退職金すら支払われない。  キミはその状況に置かれたとき、まず何をするだろうか。  生き甲斐を奪われ、社会的な立場を失った。そうした呆然自失の状況で普段の生活通りにキミが手を付けるものが……キミにとっての本質を示しているのではないかと、俺は思う。  そんな益体もないことを思ったのは、夕食に作った酢豚を食べながらのことだった。  もう言わなくても分かっていると思うが、クビになったのは俺である。  新卒から5年務めた会社だが、あっさりと使い捨てられた。  そのまま呆然と家に戻って来たのだが、頭が回らないながらも体は普段通りのルーチンを繰り返し、スーパーで材料を買って、無意識のうちに酢豚を作っていた。  しかも相変わらずうまい。  深い飴色に光る豚肉は表面がカリッとした食感ながら、中身はジューシーで噛むたびに肉汁が滴り落ちる。これはいい出来だ。  炒める前に卵白と片栗粉をまぶしておくのがコツだ。そうすると豚肉から水分が染み出しにくくなるため、外側がカリッと仕上がる。  タマネギ、ニンジン、ピーマンに加えてカシューナッツを入れているため、深い味わいだけでなく食感もバッチリ楽しめるというわけだ。  それにしても、自分を見失っていながら、よくいつも通りに料理できたなと我ながら感心する。これも学生時代から毎日夕食だけは自炊を続けてきたたまものか。 「つまり、俺にとっての本質ってのは“食”だな」  俺の趣味は料理だ。  といっても、本気でプロの料理人について修業したり、料理学校に通ったわけではない。  どこの家庭でも自然に作られている、ありふれた素人料理だ。  料理は楽しい。食材の切り方や、調味料をちょっと変えただけで大きく味が変わるのは、まるで錬金術のようだ。ネットで狙った食感や味わいを出すための工夫を調べて、実際に再現できたときは、さながら隠された神秘を得たように思う。  しかもうまく作れれば、文字通り美味しい思いもできる。  それが楽しくて、どんなに遅くまで残業しても、必ず夕食だけは自分の手で作ってきた。 「……こんなことになるなら、いっそ料理人を目指した方がよかったかな」  いまさらである。もう遅い。  それなら大学に行かずに料理学校に通うべきだったし、会社なんて入らずにプロの料理人に弟子入りするべきだったのだ。  27歳になって今更料理人を目指すなんて……  ……いや、言うほど無理でもないか?  脱サラしたおっさんでもラーメン屋開けるんだし、俺でもなんとかならね? 「……いや、無理があるか……」  引っ張り出した預金通帳を見ながらひとりごちる。  悲しいことに、ブラックでこき使われてきた俺の貯金は数十万しかない。  料理人の下積み生活は、それは薄給だと聞く。この貯金では食っていけそうにはない。  残業代がみなし残業で月1万しか払われていなければ、もっとあっただろうに……!  せめて退職金よこせよ!!  労基に垂れ込んで裁判起こすべきかとも思うが、もうあの会社に関わりたくない気持ちの方が強い。 「……まあ疲れたし、しばらくゆっくりするか……」  本当はすべてを忘れて旅行に行きたいけど、そんな金ないしな。 ========================================  あれから2週間が経過した。  その間、俺は毎日昼はうまいと評判の店を食べ歩いて味を研究し、夜は自炊で料理を作る日々を過ごしていたのだが、そろそろそろそろ次の仕事を見つけないとヤバい気がしてきている。  まず何よりも貯金がまずい。  そりゃ昼に外食して、夜に自分の好き放題に食材買って料理作ってれば金なくなりますよねー!  まだまだ休みたい気持ちはあるのだが、俺は結構な自堕落である。  これまではブラック企業でいやいや働かされてきたから勤勉にふるまっていただけであって、そもそも俺は割と怠け者気質なのだ。そうじゃなければ学生時代に就活に失敗して、ブラックに就職するなんてするものか。  このままだと貯金が尽きるまでニート生活を送りかねん。 「うーん……いい職場ないかなあ……」  マウスをカチカチ言わせながら、パソコンのモニターと睨めっこする。  こんな状況でマトモな労働環境求めとる場合かーッ! と自分でも思うのだがが、もうブラックはこりごりだ。あれは人間性をすり減らしていく。  とくに怒鳴り声がきつい。軍隊じゃあるまいし、何故ブラック企業はいちいち社員を怒鳴りつけなくては気が済まないのか。  俺の職歴でホワイト企業を狙うのは難しいとは思うが、せめてもう少しマシな職場では働きたい。  ……しかし見つからねーな。  どれもこれも、会社名でネットサーチしたらブラックとの口コミが出てくる会社ばかり。仕事の内容もあまり興味を惹かれない。  こうなれば、いっそバイトで妥協するのもアリか? でも下手にバイトでしのいでしまうと、そのまま30代をフリーターで過ごしてしまいそうな気もする。  とはいえ、減り続ける貯金をなんとかしなくてはならないのも確か。  どうせなら、飲食関連にするのもいいかもしれない。どっかのオープニングスタッフで潜り込めそうなところはないだろうか……。  一通りめぼしい店舗の求人にエントリーしてみよう。 「……ん? なんだこれ」  何か変な項目をクリックしてしまったようで、画面がパッと切り替わり、海上に浮かぶ豪華客船がでかでかと表示された。  ブラウザバックしようとしたが、俺の目は画面に表示された文言にクギ付けになる。 『豪華客船で世界一周クッキングツアー! 優雅な船旅を楽しみながら、港ごとに料理をふるまうだけの簡単なお仕事です。費用一切なし、経験・資格不問!!』  マジかよ。  どうやらこのページもどこぞの企業の求人広告であるようだ。  内容を読み込んだところ、豪華客船で世界一周のクルージングを楽しみ、港に着いたらそこで現地の人々に料理をふるまえばいいらしい。船で移動している間はとくに仕事はなく、のんびりとバカンスしていればいいとのこと。しかもその間のギャラもバッチリ支払われる。  うまい……なんてうまい仕事なんだ。  正直うますぎて詐欺を疑うレベルだ。仕事するのに手付金が必要だと言われて、そのまま仕事を割り振られることなく音信不通になるとか。  しかし費用一切なしということは、手付金を求められることはないだろう。 「いや……でも、これはさすがに腕利きのシェフを募集とかだよな」  だが経験・資格不問とある。  いやいや、騙されないぞ。これは名のある料理人が応募することが前提に違いない。  ……それでも、下働きの手伝いとかで雇ってもらえる可能性もある。  応募するだけしてみてもいいんじゃなかろうか。  悩みながらページを見つめていた俺は、ページの一番下に書かれていた期日に気付く。エントリー締め切りは今日までになっていた。 「……ま、応募するだけならタダだよな」  手早くエントリーシートを書いて、メールを送付。  するとメールソフトがピコン、と音を鳴らして着信を通知してきた。  ……返信だ。 「はやっ!?」  いやいやいや、どうなってんだよ。  なんで送ったばっかりのメールの返事がいきなり届くんだ?  ……ああ、自動返信ならそういうこともあるか。  自分を納得させてメールを開いた。 『保坂月也様  このたびは弊社の世界一周クルージングクッキングツアーへのお申込みありがとうございます。  保坂様は調理師資格なしとのことでしたが、弊社の調査の結果、料理実績には確かなものがあると判定されました。  是非とも弊社のツアーにご参加いただければ幸いでございます。  ただし何分期日が迫っておりまして、可能であれば本日からお越しいただければと考えております。ご都合いかがでしょうか。  もしご承諾いただけるようでしたら、すぐにでもお迎えにあがりたく存じます。  いろよいご返事を賜りたく、何卒よろしくお願い申し上げます』 「なにこれこわい」  俺は目を皿のようにしてメールを見つめた。  ……調査?  いつやったの、そんなの。  いや、そもそも自動返信メールだよね、これ? じゃなかったらこの文面、1分かからずタイプしたことになるんだけど。  怪しい。怪しいというか、奇(あや)しい。何か得体のしれない現象が起きている気がする。  ……返事どうする、これ。 「……まあ、毒喰らわば皿までと言うしな」  むしろ俺はこのメールに興味が出てきた。  いったいどんなトリックでこんなことができているのか、解き明かしてみたい。  迎えが来ると書いてあるが、まさか今から車でも回してくるつもりなのか?  俺はぜひよろしくお願いします、と書いて返信ボタンを押した。 「いいですよ……っと」  その瞬間、世界が歪み……。  気付けば俺は、大海原に浮かぶ、船の上にいた。